本日、『地上の楽園』にて第21回中央公論文芸賞を受賞致しました。
謹んで御報告申し上げます。
読者の皆様、関係各位に深く感謝の意を表します。
本日、『地上の楽園』にて第21回中央公論文芸賞を受賞致しました。
謹んで御報告申し上げます。
読者の皆様、関係各位に深く感謝の意を表します。
□これまで何度も発言してきましたが、『機龍警察』は当初はシリーズ化の予定などありませんでした。作中のメインエピソードは完結しておりますので、そこで終わってもやむなしというスタンスでした。しかし長年温めてきた世界観であり、「続編が書けたらいいな」くらいのことは考えていて、そのための伏線をいろいろと仕込んでおいたのも事実です。もっと正確に言うと、伏線というよりは、「自ずと露出した世界観の片鱗があちこちに窺える」といった方が適切でしょうか。
□これも以前に書いたような気がしますが、世の中には「シリーズ化を狙っているだろう」とか「メディア化を狙っているだろう」とか言いたがる人が多いようです。
何度でも言いますが、そんなことを考えて書けるほど小説は甘いものではありません。むしろ、そうした邪念が完成度を下げることはあっても、作品に資することは一切ありません。
書き終えた後で、苦労をともにした関係者と「続編もやれるといいね」なんて笑い合うことはありますが、そうした作品に限って、予想だにせぬ理由からシリーズ化できない場合が殆どです。
□おかげさまで『機龍警察』は全関係者の予期に反してシリーズ化され、無事第一部を終えることができました。この場にて皆様に感謝申し上げます。
一作目のあれがここにつながるのか、まさかあれが伏線だったのかと、遠大な伏線(世界観)回収に驚いて頂けますと望外の幸せです。
同時に、一作目にはまだまだ未回収の伏線が(そうと気づかれぬように)埋設されています。
それらは、今後執筆される第二部において必ず回収されるでしょう。
□第二部についてはすでに構想を巡らせており、作者も発表できる日を楽しみにしております。
と言うより、構想は最初からあって、ディティールの検証やプロットの錬成にかかっていると申した方が近いでしょう。
□当初は『機龍警察』の舞台について「至近未来」という言葉を自分で考え、各種コピーに使用してもらってきたのですが、それは機甲兵装なる架空の装備が出てくるのに現代と自称することへの遠慮があったためです。
しかし『暗黒市場』の頃でしたでしょうか、そんな遠慮をする必要はないことに気づき、舞台は「現代」であると堂々と言えるようになりました。
何を言いたいかと申しますと、『機龍警察』の構想は、〈敵〉の設定を含め、当初からまったく変わっていないということです。
ただ時代の方が勝手に追いついてきて、本作のリアリティを補強してくれているにすぎません。
世の中には〈敵〉を「悪の秘密結社」のイメージで捉えたがり、勝手に失望している人もいるようですが、私の関知するところではありません。
私は当初から「現代を描く」と宣言しており、その信念に一切の揺らぎはありません。
『白骨街道』連載中にミャンマーでクーデターが突発した際も、(事件への言及を除いて)当初のプロットを一切変えることなく脱稿したのは当時発言した通りです。
□作中時間について改めて記しますと、龍機兵の汎用化まで残り五年(『狼眼殺手』で三年に短縮)、姿俊之の契約満了まで残り一年(『漆黒社会』で再契約)で出発したのは、綿密な計算あってのことです。
ですので、『自爆条項』は晩秋、『暗黒市場』は年末から年明け、『未亡旅団』は五月の連休、『狼眼殺手』は梅雨時、『白骨街道』は真夏、そして『漆黒社会』は再び秋と、ちょうど一年になっているわけです。
残された時間の中で、特捜部の面々はさらに過酷な試練に晒されることとなるでしょう。
□機龍警察第二部、どうか楽しみにお待ち頂けますと僥倖です。
現在発売中の「山と渓谷」八月号に、昨年湊かなえさんと岩木山・八甲田山に行ったときの記事が掲載されております。
執筆は湊さんなので、値千金と申せましょう。
(以前告知しました際、私が掲載号を勘違いしておりまして申し訳ありません。今度こそ本当です)
先月七日のブログでも記した通り、私は
「エンタメと称される作品」も「そうでない作品」も書く。
また、
「共感を必要とする作品」も「そうでない作品」も書く。
さらには、
「悲劇」も「喜劇」も書く。
誰かに強制されたわけではない。書きたいから書いているのだ。この自由さこそが小説という媒体の魅力の一つであるとも思う。
言うまでもないが、それらの作品の間に貴賤はない。さらには、強いてなんらかの枠組みにカテゴライズする必然性すら消滅しつつあることも先日記した通りである。
いずれも私の作品であり、全力で取り組む覚悟に変わりはないし、実際にそうやって書いてきた。故に私はかつて手がけた全ての作品に対して変わらぬ誇りを抱いている。
代表作はと問われると、躊躇なく「全作」と答える。
読む人によって個々の感想は異なるだろうし、それが当たり前であるとも言えよう。いずれにしても、作者である私には関係ない。作家が読者に迎合するのは決してあってはならないことだからだ。
ただし、どの作品であっても作者が「私」であることは共通している。故に、根底に在る〈最も重要なもの〉もまた共通しているはずだ。
それを読み取って頂けると嬉しいし、逆に言うと、ジャンルに関係なく、根底に在るものを読み取ることこそが、表層的ではない、本質的な作品理解に不可欠であろう。実際に読み取ってくれている読者の存在は、私にとって大きな励みとなっている。
そうした読者の方々に対し、この場より心からの御礼を申し上げたい。
□秋からの新連載に着手。しかし複数の新刊のゲラに追われ遅々として進まず。
□『漆黒社会』カバー写真決定。今回も恐い。とにかく恐い。他の候補も粒ぞろいの恐さだったので、決断するのが一苦労だった。
□久々に外出。大手書店で資料を買い込み、店を出ようとしたところ、『笑う大天使』の特設コーナーが目に付いた。我が目を疑いつつ思わず足を止めて引き返すと、おそらくは現在流通している旧刊の他に、クリアファイルやキャンバス地の限定イラスト、メモパッド等のグッズが展開されている。
2026年も半ばを過ぎて、なぜ川原泉が!?
根源的な疑問はさておき、川原スマイルの主人公三人が並んでしゃがみ込んだ絵柄のアクリルスタンドを購入。我が人生初のアクスタである。
これが話に聞く「アクスタ」というものか……
帰宅して早速書架に並べてみる。しかしアクリル板ゆえ、どこに置いても照明を反射してしまい、なんの陳列物なのかサッパリ分からない!
かといって照明の当たらない所に置くと、当然ながら暗くて見えない。
まさかこんな罠が仕掛けられていようとは……!
衝動買いの恐ろしさに戦慄を禁じ得ぬ私であった(現実逃避中)。
ちなみに買ったことは全く後悔していない(税込約1000円)。
□近年、文芸の最前線ではエンタテインメントと純文学の境界が急速に崩れつつあると日々実感する(純文学の定義は一旦置くとして)。
先年創刊された文芸誌「GOAT」の好調ぶりは痛快ですらあるし、実際、私が最近手に取り、しかも読んで面白いのは「純文学」にカテゴライズされている作品が多い。
そうした流れは決して一時的な現象ではないと思う。出版を巡る状況が悪化の一途を辿るこの時代、一刻も早く古い文学観から脱却せねば、間もなくして取り返しの付かない事態に陥るのではという危機感を覚えずにはいられない。
□最近、作家の方の「小説とは、登場人物に共感、あるいは感情移入することを必須とするものではない」という言説を立て続けに目にする機会があった。
まったく同意見である。と言うより、当然のことである。
さらに厳密に言えば、「感情移入を必要とする作品と、そうでない作品」があって、どちらも同じ文学であり、それぞれに違った面白さがある。
その基準は時代にも左右される。例えば『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、かつては大いなる共感を以て読む人も多くいたはずであるが、今ではそう読めない人の方が圧倒的に多数を占めるだろう。
だからと言って、『罪と罰』の本質的価値や面白さが変化することはない。変化したのは読者のリテラシーの水準である。
この場合のリテラシーとは、何も特殊な技術や知識を差すのではない。ましてや、誰かが誰かに対して「マウントを取る」ために資するものなどではない。「作品と虚心坦懐に向き合う態度」。これに尽きるのである。
□私も曲がりなりにも作家であるから、信念を持って「感情移入を要する作品」と「要しない作品」の双方を書く。どちらも私の作品である。故に双方は、相互に作品理解を深めるために補完し合う関係にあると言っても過言ではない。
□『機龍警察 漆黒社会』8月5日刊行。初稿ゲラチェック完了。表紙ラフ案数点届く。最悪に恐い。
□『漆黒社会』に登場するモサド情報員のエフライム・ギトリスについて。
私は基本的に当て書きはしないタイプだが、少し前にネットでエドワード・フォックスの若い頃の写真を目にして、あまりにギトリスのイメージ通りなので驚いた。
ギトリスはこの人です。
□来週は『腐魚の海』ゲラのチェック開始予定。
それまで『白い箱庭』最終回の執筆続行。
□昨夜、このブログで何年も前に書いた古い記事のコメント欄に読者からのご質問が届いており、お答えしておいた。『ノワール』に関するご質問であった。