月村了衛の月録

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一期一会 山田風太郎先生の思い出(一)

もう三十年近くも前、早稲田の新入生であった私は、入学式の直後より御多分にもれずあちこちのサークルを覗いて回っていた。
その中の一つが「幻想文学会」であった。が、私は勧誘受付にあったノートの新人紹介欄に住所と好きな作家についての駄文を記しただけで、それきり顔を出してはいなかった。それでも同サークルを母体としたグループが「幻想文学出版局」を立ち上げ、前年より季刊誌『幻想文学』を発行しているのは知っていた。
(そう、これは『幻想文学』創刊間もない頃の話である)
入学より一ヶ月も経たないうちに、下宿に一枚の葉書が届いた。

差出人の名は東雅夫

お名前は存じ上げていたが、その時点で面識はない。
葉書には当方に会いたい旨が記されていた。
お会いすることにして、当時早稲田の野球場の近くにあった幻想文学出版局に出かけた。
その当時でもすでに珍しくなっていた本格派老朽アパートの三畳間であった。
奥の窓際に勉強机、手前にちゃぶ台のようなテーブル。
机の前に座った青年が編集人の東さんで、テーブルで作業をしていた女性が発行人の川島徳絵さんであった。
その三畳一間のアパートが、かの『幻想文学』の編集部であり、発行所であり、倉庫であったのだ。(押入れには『幻想文学』二号と三号の在庫が入っていた)
三つ揃いのスーツで三畳間に佇む東さんは、さながら幻想の沃野に立つ貴公子に見えた。(実際にそう思ったし、今でも私の中の東さんのイメージはこの時のままだ)
生意気な新入生である私を東さんは温和に迎えて下さった。その紳士的な物腰も素晴らしかった。

東さんの用とは、五号で予定している山田風太郎インタビューに同行してもらえないかということだった。
いきなりのことで面食らったが、こちらは何しろ山田風太郎に関しては一家言も二家言もある(つもり、だったというだけ)。早稲田の教授に「山田風太郎はそのうち必ず再評価されるだろうから、今のうちに論文を書いて『国文学』にでも発表しておいたらどうか」と勧められたくらいである。(当時すでに創作者志望であった私は、論文執筆はすべきでないと思ったし、実際にしなかった。少し後悔している)
山田風太郎について色々話すうち、再度東さんからインタビュー同行を要請された。
適任者がもっと他にいそうな気がしたのでそれを告げると、
「早稲田中探してもここまで山田風太郎に詳しい人間はいませんよ」
と仰られた。川島さんも同意しておられた。
そこまで言われて引き下がる手はない。
私は依頼をお受けすることにした。

(以下続く)