昨夜のトークショーでは、逢坂剛さんからいろいろお話を伺えて学ぶところ大であった。
その中で、リメイク西部劇の話になったとき、逢坂さんが
「そう言えば『シェーン』はどうしてリメイクされないんだろう」と仰って、私は「シンプルすぎるからじゃないでしょうか」とだけ答えた。
今ふとそのことを思い起こし、改めて思ったのだが、現在の観客は〈王道を低く見ている〉のだと思う。作り手側にも無用なてらいが生じて王道ができなくなっている。
王道とはすなわち正統である。
シェーンは(表面的に描かれてはいないが)複雑な背景を持ったキャラクターだ。そして同時に、どこまでも〈子供を守るヒーロー〉である。
かつての観客は、表層の英雄譚を楽しみながら、物語の背後に隠されたものを無意識的に感得していたのではないか。
現在はそうした最低限の文化的共通認識が失われた時代であるというのが私の持論である。
表層しか見えない者にとって、『シェーン』とは勧善懲悪の単純極まりない物語でしかない。
この単純さが鍵だ。
深刻ぶったり、複雑さのみを求めるのは実は容易い。
単純な構造であればあるほど、ある種のテーマは力強さを帯び、訴求力を高める。
私はこれまで、〈少年を守るヒーロー〉の物語を何度か書いた。
例えば、『機忍兵零牙』だ。
これは、大人のための物語である。〈少年を守るヒーロー〉の大切さを知るのは大人である。子供はそういうヒーローを嫌う。私も子供の頃はそうだった。
私は『機忍兵零牙』を誇りに思っている。
差別され、蔑まれる人達を冷笑する現実への怒りを込めてこれを描いた。その衝動を私が忘れたとき、それは私が作家を名乗る資格を失うときだと考えている。
現実に喘ぎながら生きる大人の読者に愉しんで頂きたいと願う。